こんにちは。
脳内ヤンキーおかん です(*^^*)!
今日は祖父の話をします。
祖父の名前は「トヨキ」。
私のトヨタマキというハンドルネームは
祖父の名前からつけました。
私は両親と祖父母に囲まれた家で育ちました。
小さい頃はきっと祖父にも可愛がってもらったはずですが、
物心ついて以来、
私にとって祖父はずっと喧嘩相手でした。
男尊女卑の塊みたいな人だったし、
「働かざるもの食うべからず」だったし、
祖父がカチンと怒ったら何かと面倒な人でしたから。
学校でいつも
「うちのじーちゃんは昭和生まれだけど、明治の人みたいだよ」
って言ってた(笑)
大正時代飛び越えて、もっと昔の人だよって言いたかった。
中学生や高校生の頃は、祖父も父も嫌いだった。
すべてが上からモノを言う。
頭ごなしに怒られるのが、たまらなく嫌だった。
「夜中に家族を金属バットで殴り殺した」ニュースを耳にすると、
他人事じゃないって思えるほど、大っきらいだった。
理不尽に怒るから、絶対に勝てなかった。
祖父は筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)。
肉体労働をしていて、
カラダは日焼けしてムキムキしてて、
戦っても勝てる気がしなかった。
共働きの両親に代わり、
同居する祖父母が私ら姉弟の面倒を見てくれてた。
今では「ありがとう」が言いたい。
当時は一切言えなかったけど。
我が家で生まれたばかりの子犬を、
箱に入れて川に流しに行ったと聞いたときは、
人間として最低だと思ったし、
祖母が行動するとき、
いつも祖父の同意を得てからしか行動できないのも嫌だった。
「自立してよ!おばあちゃん!!
おばあちゃんをもっと開放してよ」
そんな心の声をいつも発していたように思う。
「贅沢は厳禁。倹約が美徳」だったので、
新米を食べることは出来なかった。
1年前や2年前の古米を食べることを余儀なくされた。
完全なる性悪説の人で、
祖父は周りの人を信ずることができなかった。
そして、いつもマイナスのフラグを立てる人だった。
「そんなことしたら、ろくな大人にならない」
「あいつは馬鹿だから分からないのだ」
「お前たちのお母さんを、嫁にもらわんほうが良かった」
そんなマイナスの言葉を
家にいる間中ずっと浴びるのが
嫌で嫌でたまらなかった。
そんな、大っきらいだった祖父の名前を、
なぜ我がビジネスネームにしたのか。
それは、祖父を抱っこしてあげたかったから。
晩年は、ひ孫を可愛がってくれた。
ひ孫に優しい祖父の姿に、
祖父の幼少期に思いを馳せた。
祖父はよく、言っていた。
「自分が赤ちゃんのときは、自分でハイハイするまで誰にも構ってもらえなかった。」と。
昔は子どももたくさんいて、忙しかったのだよと。
だから、自分で動き出せるまで、赤ん坊は皆、寝せられたままだったのだと。
きっと祖父は、
つらい経験・寂しい経験・苦しい経験を
沢山乗り越えてきたのだろうと思った。
きっと、あんなヒドイ人間に、
なりたくてなった訳じゃない。
小さい頃に愛されてこなかったから、
こんなに人を憎み、疑い、許さずに生きてきたのだと。
そんな祖父も、86歳で亡くなった。
心臓麻痺だったのか、胸が苦しくなって溺れたのか、
お風呂で1人、亡くなった。
検死を終えて、監察医さんに
「もういいですよ。ご家族の方どうぞ。」
と言われた時、
裸のままの冷たい祖父を
抱きしめずにはいられませんでした。
寒かったね、
がんばったね、
1人にしてゴメンね、
大好きだよ・・・
そう言いながら
ずっと頭をなでていました。
おじいちゃん、
君はよくがんばったよ。
69歳でおばあちゃんに先立たれて、
それまで身の回りのことをすべて祖母がしていたために、
ガスの付け方も分からなかったよね。
ガスコンロの火をフーフーして消そうとするくらい、
がんばりました。
急須でお茶を入れるのも
ずいぶん上手く出来るようになったね。
腕を切って怪我したときに、
消毒薬がなくて、
自分で湿布を貼ったのは傑作でした(*´艸`*)
おじいちゃんは、誰のことも頼ろうとはしなかったね。
オムツをする機会があっても、
「自分のことは自分でする」といって、
自分でパンツオムツを履き替えてた、
偉いぞ。スゴイぞ。かっこいいぞ。
そんなおじいちゃんが、
晩年、私にだけは弱みを見せてくれたね。
銀行からお金をおろしてきてほしい。
リサイクルショップに連れていってほしい。
なくなる1ヶ月くらい前、
初めて泣いてたね、
もう畑を耕せないって。
大好きだよ、おじいちゃん。
ずっとずっと、一緒だよ。
おじいちゃんの名前と一緒に、
私もたくさん学び続けるよ。
そして、たくさん幸せになるよ。
一緒に幸せになろうね。
最後までお読みいただきありがとうございます゚(*˘︶*).。.:*♡
今日という日がいい日でありますように♡
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